情熱!農業人独立ストーリー 独立支援プログラム先輩たちの道のり3 第4期生・塚本佳子物語「不屈の精神で全力疾走」

人生を変えたエチオピアの大飢饉と顧問の先生

野菜に丹精を込める
道具の手入れは欠かさない

畑に整然と並ぶ収穫直前のレタス。そのひとつを包丁でスパッと切り取り、バリッと両手でふたつ割りに。口いっぱいにレタスをほおばると、「おいしいですよ!」。豪快な人です。みかんやお茶の栽培で全国に名を馳せる、静岡県西部の菊川市。独立支援プログラム4期生の塚本佳子さんは、この地でレタスを栽培しています。

塚本さんは神奈川県藤沢市に生まれ、中学の美術教師だった父親と保育士だった母親のもと、3人兄弟の次女として育ちました。「おうちの中で折り紙というタイプではなく、外に出ると帰ってこないタイプでしたね」(塚本さん)。子どもの頃から活発、アウトドア派、そしていつも人をまとめる立場にいました。中学ではソフトボールに熱中。塚本さんは部長を務めていましたが、

「当時、エチオピアで大飢饉があったのですが、先生は駅前で募金活動をしたり、毛布などを集めて現地に送ったりしていたんです」。その姿を見た塚本さんの心に、「将来は途上国に行って、何か協力したい」という気持ちが芽生えました。 従業員に的確な指示を出す そのクラブの顧問が塚本さんの人生を変えたといいます。 高校時代もその想いを持ち続けた塚本さんは、日本大学農学部拓殖学科(現・生物資源科学部国際地域開発学科)に進学。特待生で、学費は免除されました。


学部長賞で卒業→南米エクアドルに3年→鳥取大学で2年

成績優秀な生徒に与えられる学部長賞をもらって大学を卒業すると、すぐに海外協力隊の野菜隊員として南米のエクアドルへ。現地中学の農業実習の教師となり、「みんなでトマトやパイナップル、キャベツなどを作って販売し、その売り上げでハウスを建てよう、というプロジェクトを立ち上げたんです」。栽培から販売までを一貫させるプロジェクトは見事に成功し、5畝(せ=約5アール)ほどのハウスを建てることができました。3年が過ぎるころには、塚本さんにはいまの仕事のベースが備わっていたと思われます。

しかし塚本さんに、充足感はありませんでした。「新卒で行ったので力が不十分。現地ではすごくお世話になったのですが、何も役に立たなかったような気がしました」。もっと勉強しなければという想いがつのり、今度は鳥取大学乾燥地研究センターの修士課程へ進みます。しかし塚本さんにはいまも忘れられないひと言があります。「ここは、海外協力隊に行くような学生が来るところではない。もっと優秀な学生が来るところだ」……その分野で著名な教授からのひと言でした。

当然、負けず嫌いな塚本さんは一念発起します。2年間びっしりと、電子顕微鏡で遺伝子の解析するような研究生活を続け、終了を迎える頃には教授から「博士課程に進みなさい」と言われるほどに。「たぶんわたしの人生の中で、いちばん勉強したと思いますね」。


「よし、学は達成した、次は技術だ」と、宮古島からアフリカへ

トウモロコシ畑にお客様を迎える
会社のTシャツも作った

大学院に残りたい気持ちもありましたが、「よし、学は達成した、次は技術だ。そんな意気込みで宮古島に渡りました」。研究生活から一転、今度は宮古島で農業生産法人で農作業に汗を流す毎日を送ります。休みもなく重労働でしたが、ここでハウスの建て方や肥料設計といった農業の基本を覚えたといいます。「力仕事の連続でしたが、不思議と楽しかった。わたしもやってみたいと思いました」。ここでの4年の体験が、農業を志すきっかけとなりました。

しかし一方で塚本さんには、エクアドルでの活動に心残りがありました。「農業を始めて会社を立ち上げたら自由がきかない。独立する前に自分のやり残したことをやろう」。勉強もサークル活動も農業も、納得できるまでとことんやり遂げないと気が済まない塚本さん。再び海外協力隊の試験を受け、今度はアフリカのザンビアへ飛びます。 愛犬に力をもらう ザンビアでは高校で理科の教師として2年半を送ったものの、しかしまたもや満足のいく活動はできませんでした。「2年ぐらいの任期ではできることが限られるし、その効果もよくわかりませんでしたね」。


「しっかりやれば、独立できる」(澤浦社長)の言葉に支えられ

日本に戻ったら独立すると決めていた塚本さんは、帰国後すぐに東京でのファーマーズフェアを訪れ、そこで野菜くらぶの澤浦社長と出会います。「澤浦社長にいろいろお話をおうかがいし、もう”野菜くらぶしかない!”と思いました。野菜くらぶは販売ルートが確保されているので、生産に専念できるのがすごく魅力的だったんです」。このとき塚本さん35才。山田広治さんが第1期生として、青森県で独立していました。「実際に独立し成功している人がいたのも、野菜くらぶを選んだ理由でした」。

研修先は澤浦社長の会社、グリンリーフ。通常であればレタス農家などが研修先になりますが、女性の塚本さんは受け入れ先がありませんでした。一部にまだ、「女が農業で独立できるわけない」という意識が残っていたのも否めません。そんなとき「しっかりやれば大丈夫、独立できるよ」と励ましてくれたのは、澤浦社長でした。ここでも塚本さんは持ち前の負けじ魂を発揮して必死に働き、周囲からも認められるように。「グリンリーフではすごくよくしてもらって、今でも当時の社員の方と交流があるんですよ」。

群馬で1年間の研修を終えた平成18年8月、菊川市に移り住み、レタス栽培の研修を始めます。第2期生の向山耕生さんが地元の農家を回り、必死で借り集めた土地が菊川にあったからです。しかしそれまでの群馬の研修ではレタス栽培の経験はないに等しく、文字通り一からのスタート。「いま考えると、無謀でしたね(笑)」。朝から晩まで農場で格闘したものの、1年目は赤字。しかしそこは塚本さんです。翌年は地元のレタス作りの名人である本多利吉さんなどに教えを請い、研修2年目にして見事に黒字化に成功しました。


パトカーがキッと止まって、「何してんだ!」

おいしいレタスをお届けするために
全力でがんばっています!

平成20年、塚本さんは菊川で(株)やさいの樹を起業し、レタス栽培を始めます。澤浦社長によると、「1カ月の労働は、400時間を優に超えるくらい頑張っていましたね」。無我夢中でレタス栽培に打ち込み、その結果「独立初年度で素晴らしい売り上げ」(澤浦社長)を達成します。

そんな塚本さんには、武勇伝がたくさん。なんと警察に何度も捕まっているのです。いえいえ、罪を犯したわけではありません。「夜中に農作業しちゃうからなんです」。たとえば、翌日から1週間雨が続くという予報を聞いてマルチ張りを始めたところ、夜中までかかってしまい警官に注意を受けたことが。「それから朝採りのトウモロコシですね。朝6時に野菜くらぶの出荷場持っていくには、深夜0時から収穫しないと間に合わない。で、ヘッドライトつけてボキボキ折ってると、パトカーがキッと止まって『何やってんだ!』って。真夜中だから、誰だって泥棒だと思いますよね(笑)」。すべては、”生産者として納得できる品質の野菜を届けたい”という、塚本さんの一途な想いからです。

現在2名の従業員とともに栽培を続ける塚本さんのレタスは、品質のよさに定評があります。それは畑を見れば、一目瞭然。まっすぐに伸びたうねの上にはレタスが整然と並び、畑に不要なものはひとつも落ちていません。従業員への指示も厳しいですが、「その時は大変な思いをしても、あとになって感謝してくれる人が多いんですよ」。ホッとひと息つけるのは、3匹の犬と戯れるとき。明日への活力を得て、全力で走り続ける日々が続きます。少しでもいい野菜をお届けするために……。

'10.10 米田玲子


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